2000年3月
国立長崎大学医学部卒業
2000年4月
長崎大学病院第一内科研修医
2001年4月
大分県立病院消化器腎臓内科研修医
2002年4月
田川市立病院内科
2003年4月
国立病院機構佐賀病院内科
2004年4月
長崎市立市民病院内科
2006年4月
長崎大学医歯薬総合研究科大学院
2010年3月
医学博士取得
2010年4月
長崎労災病院内科部長
2011年4月
大分県立病院消化器腎臓内科副部長
2015年4月
国立病院機構佐賀病院内科医長
2017年4月
医療法人柳育会柳病院内科
2019年4月
医療法人ハートアンドオンリー「福岡天神内視鏡クリニック」院長
専門領域
臨床資格
私は佐賀市内で生まれ、幼少時に東松浦郡相知町(現唐津市相知町)に転居しました。父は学習塾の先生、母は書道の先生であったため、物心つく頃から私にとって両親は親であり、勉学の先生であり、書道の先生でありました。そんな両親の影響を受け、将来は先生と呼ばれるような、人になにかを教える職業に就きたいと思っていました。
地元の公立中学に進学し、漠然と将来は学校の先生になりたいと思っていた頃、中学2年生の冬に右下腹部の激痛で目が覚め、その日の午前中に病院を受診し、急性虫垂炎と診断されました。そのまま緊急入院をして緊急手術を受けることとなり、大事に至らずに済みました。
初めての入院、初めての手術で不安が大きく、病室で落ち込んでいたのを覚えていますが、手術を担当してくれた主治医の先生は、どんなに忙しくても必ず毎日病室に来て、不安な私に優しく接してくれました。その姿に感動し、あこがれの念を抱くようになり、その頃を境に将来は医師になりたいと思うようになりました。
国立大学医学部を目標に定め、高校生活のすべてを勉学に捧げるという意志で全寮制高校に入学しました。
意気揚々と親元を離れ新生活が始まったのですが、高校生になったばかりの寮生活は想像以上に辛いものでした。週末に実家に帰ることができたのですが、日曜日の夕方には寮に戻らなければならず、寂しさと辛さでひとしきりトイレで泣いた後、笑顔で母の運転する車に乗り込み、寮に戻っていたのを覚えています。
そのかいあってか3年間の寮生活による猛勉強の末に国立長崎大学医学部に合格することができました。
大学卒業後は長崎大学医学部付属病院第一内科に入局し、様々な診療科の臨床経験を積んできました。
研修医の頃は2~3日病院に寝泊まりすることは日常茶飯事で、お金も時間もありませんでしたが充実した日々を過ごしたことを覚えています。とにかく早く一人前になりたい一心で、知り合いもいない県外の多忙な病院を希望して勤務しました。当時は救命救急医療が好きで、その中でも特に腹痛の症例を診察することに興味を持つようになり、そのことが一つのきっかけとなり、専門医として消化器内科・内視鏡科の道に進みました。
消化器内科医として内視鏡検査をはじめ一通りの手技ができるようになった頃に大学院に入学し、4年間、肝臓と免疫についての研究を行いました。日中は臨床医として診療し、夕方から研究医として基礎研究を行いました。とにかく毎日がハードで、夜遅くまで実験室で実験することもありましたが、日勤で内視鏡検査を行う日が大学院時代の楽しみでした。内視鏡検査中は研究のことを忘れることができ、ひたすら検査に没頭していました。そのような4年間を乗り越え医学博士を取得したことが、現在の私の支えとなり自信となっています。
大学院卒業後は再び臨床に戻り、数年間の総合病院勤務を全うした後、今後どのような医療の道に進んで行くのか模索していた時に、知り合いの方の紹介で福岡天神内視鏡クリニックの平島医師、相馬医師と出会いました。初めは今後の進むべき医療の道についてアドバイスを貰うぐらいの軽い気持ちでお会いしましたが、
「昔ながらの古い福岡の医療を変えたい」
という2人の熱い思いに賛同し、微力ですが力になれればと思い、一緒に働かせていただくことになりました。
平島医師が私の所属していた医局の先輩の親友であったことや、私が以前、福岡天神内視鏡クリニックを偶然にも患者として受診し、相馬医師に胃カメラ・大腸内視鏡検査をしてもらったという出来事も、なにかの縁であると考え、一緒に働くという決め手になりました。
これから皆様にお会いするのがとても楽しみです。内視鏡検査はもちろんのこと、お腹のことについてなんでも構いませんので聞いていただければと思います。そして皆様に、健康であることの喜びを感じていただければと思っています。よろしくお願いします。