専門領域
臨床資格
食道がんや胃がん・大腸がんなどの消化器がんは特に早期の段階では症状がほとんどないことが特徴として挙げられます。
症状の出ない早期の段階でがんを内視鏡検査によって見つける事ができれば、これらのがんで命を落とす可能性は限りなく低くなります。
症状が出てからようやく内視鏡検査を受けたところ、かなり進行した状態のがんで見つかった方を今まで数多く見てきました。進行した状態のがんで見つかると、
内視鏡の治療では既に対応できず、外科的手術や抗がん剤治療、最悪の場合は何も治療できない状態となってしまい、その多くは想像を遙かに超える大変な治療となってしまいます。
肉体的にも精神的にもそして金銭的にも大きな負担となり、本人だけでなく周りのご家族や一緒に働く会社の仲間達にも、とてつもない大きな負担となってしまう現実があります。
消化器のがんは内視鏡による早期発見・早期治療が何より大切になってきます。
初期の段階では症状がでることがまずない消化器のがんに関しては「症状があるから内視鏡検査を受けよう」、「症状がないから内視鏡検査は受けない」という考えは大きな間違いでありますので、ご自身のためにも大切なご家族のためにも定期的な内視鏡検査を受けられることを強くお勧めいたします。
私自身も健康にはかなり気をつけており、患者さんに還元できるように日々自分自身の身体で様々な健康情報を本当に有益なことなのかどうか試しています。健康でないと日常の全てのことが楽しくないですし、輝いて生活できないことは言うまでもありません。健康で活き活きとした生活がおくれるように患者さんと一緒に健康生活を実践していき、有益な健康情報を共有できたらと考えております。「健康力」を高める一流の選択をしていくことが大切になってきますので、間違った知識のままで日々生活していくことは本当にその人自身やご家族にとって不利益になってしまいます。
私も健康的に生きていきたい一人の人間ですので、みな様と一緒に「健康力」を高められるように頑張っていけたらと思っております。
今後とも末永くよろしくお願いいたします。
私は靴の製造・販売メーカーに勤める父と専業主婦である母のもと横浜市緑区で生まれました。
父が転勤の多い仕事であったため北海道、東北から順に勤務先が南下している途中の横浜市の会社社宅に住んでいた際に生まれました。
私が生後8ヶ月の時、父が名古屋出張中に東名高速道路でトラックの追突事故に巻き込まれ、
亡くなってしまうという事態が起こってしまいました。
そのため母の実家である大分県別府市に身を寄せることとなり、そこで幼少期を過ごすこととなりました。生後8ヶ月ということもあり、父の記憶は全くありませんが、
小学校に上がる頃にようやく我が家が母子家庭なのだと認識するようになりました。
当時は今と違って母子家庭への風当たりがまだまだ強い時代であったため、
心ない友達や先生までもが母子家庭であることを何かと指摘してくることがありました。
当時は嫌な思いもしましたが、このことを通じて弱い立場の人の気持ちが小さい頃から自分なりに少しずつ分かるようになり、
今となってはそのような環境にいることができたことにより、逆境に打ち克つ精神力を養うことができ、 自分を成長させてくれたことに感謝しています。
幼少時から水泳クラブに通っていたこともあり、中耳炎や扁桃腺炎にかかることが度々あり、そのため耳鼻科や小児科にお世話になることが多くなっていました。
発熱や喉・耳の痛みが出たときは「つらく・苦しい」思いが強くなっていましたが、小児科や耳鼻科に到着して先生に笑顔で話しかけられるだけで、
症状がやわらぐような気がして、幼いながらも医師という職業に漠然と憧れの念を抱くようになりました。「医師になって少しでも人の役に立ちたい、
笑顔だけでも症状がやわらげられる医師になりたい」という思いを初めて心に抱いたのは幼稚園の時と記憶していますが、その思いはその後の学生生活の間も全く変わることがなく、
高校生の時に本格的に医師を目指すようになりました。
中学、高校とサッカー部に所属して日々練習で忙しくしておりましたが、青春時代の楽しい方面にも目を向けるようになり、
学業がおろそかになる時期もありました。
そのため、現役時代は目標である医学部に合格することができず、
再チャレンジに向けて浪人することになりました。
家庭の経済的事情もあり、「浪人生活は1年のみ」「学費の安い国立大学医学部のみ」
という2つの約束のもと、知り合いが誰もいない広島県の河合塾の寮での孤独な浪人生活が始まりました。
多くの高校の同級生が福岡県や地元の大分県で浪人生活を開始する中、
誰も知り合いのいない広島でのたった一人の浪人生活を開始し、高校時代とはうって変わって
勉強のみに集中する生活を行うように徹底しました。
食事中や入浴中も本を片手に勉強し、
予備校に行く通学路でも単語帳などを見ながら歩き、受験勉強のみの生活を続けました。
1日6時間の睡眠時間以外は全て受験勉強に費やし、自分にできる最大限の努力を重ね、
翌年国立佐賀大学医学部に合格することができました。
大学卒業後は地元の大分大学医学部附属病院に就職しましたが、
「早く内視鏡の技術を身につけて成長したい」とういう想いが強くあったため、
なるべくみんなが働くことを嫌がるぐらい忙しい病院に勤務することを積極的に希望して医療技術の習得に努めました。
3次救命救急病院勤務の際には24時間365日休みなく働き、医療の事、内視鏡検査の事だけを考えて過ごしていました。
その当時勤めていた病院の上司の医療に対する真摯な姿勢、患者さんへの親身な対応、
他の医療機関との上手な接し方などを間近で見ることができ、現在の私の医師としての姿勢・基盤を築いているのではないかと
思っています。3次救命救急病院で24時間、365日勤務することで得た医療技術で「医師としてやっていける」
という自信が確信に変わった瞬間でした。
その後は、世界屈指の消化器内視鏡治療件数を誇る国立がん研究センター中央病院内視鏡部などで
内視鏡技術の習得に励みました。慣れ親しんだ九州から離れて関東に勤務先を移して一番強く感じたことは、
「がんに対する内視鏡検査技術・診断力の地方との大きな大きな差」でした。
今までの内視鏡技術・診断力が全く通じず、無力感に襲われたことを今でもはっきりと覚えています。
国立がん研究センター中央病院内視鏡部や病理部では地方のドクターが一生涯に経験するであろう消化器のがんをわずか
2,3ヶ月余りで経験することができるぐらい症例数が豊富なことにはとても驚きました。
そこから必死に内視鏡検査技術・診断の研磨に励み、「苦しさと痛みに配慮した内視鏡検査」を行う技術力の礎を築くことができました。
横浜院開院前には関東の様々な消化器内視鏡専門施設を見学したり、勤務することにより多くの内視鏡検査に対しての細かい工夫やアイデアなどを習得、自分で考え出すきっかけを得ることができました。
横浜院を開院してからは、患者さん同士のご紹介を中心に日本全国だけでなく、世界各国より「苦しさと痛みに配慮した内視鏡検査」を受けに来ていただけるようになりました。
その中で
「日本全国でこのような苦しさと痛みに配慮した内視鏡検査が受けられるようにしてくれたら有り難い」
「わざわざ関東に行かなくても地方でも同じ苦しさと痛みに配慮した内視鏡検査が受けられたら良いのになあ」
というお言葉を頂くことが多くなりました。
そして、地方在住の医療関係者や友人などから現在の内視鏡検査の様子を聞いたり、
地方の病院やクリニックのホームページなどを見てみると驚くことに約20年前の内視鏡検査のやり方からほとんど変わっていないのです。
これでは地方在住の方にとって先進的な内視鏡検査が受けられず、不利益になってしまい、良くないのではと考えるようになってきました。
「苦しさと痛みに配慮した内視鏡検査」が全国各地で受けられるようになれば「一人でも多く、がんで苦しむ人を減らしたい」
という信念に近づくことができるのではと日々想うようになり、まずは地元でもある九州の中心地福岡で開院することを決意しました。
健康的な生活に必要な知識を29のテーマで徹底解説
食事、飲酒、睡眠、運動、医師との付き合い方……
「健康力=健康を維持する力」の高い人がやっていることとは?日常生活の中で正しい選択、間違った選択をストーリー仕立てで徹底解説